オフィーリア 
Vol.1
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茉莉ちゃんと初めて会ったのはICAギャラリーだった。
ロンドンに来て間もなかった僕は午後は授業がなかったその日
いろんなギャラリーを暇つぶしに廻っていたのだ。

現代美術ばかり置いているICAで
床にペタンと腰を下ろし作品を見ている茉莉ちゃん自身を
作品と間違えた僕が
彼女の左腕に触ってしまったのだった。

その左腕が僕の手を振り払い
驚いて思わず日本語で謝った僕に彼女は
「ちょうど日本語を話したかったところなの」と笑い
それから二人で教会の地下にあるカフェで何杯もお茶を飲んだ。

短いこの街の夏。
何もかもが緑で溢れ人々は貪欲に陽射しを求めていた。

茉莉ちゃんは僕より4つ年上だった。
アートスクールに通って専門はエッチング。
日本ではCDのジャケットとかも手がけたと言っていた。

「ロイヤルアカデミーに入りたい
すごい大それた夢でしょ?」

そんなふうに笑って話す彼女に僕は憧れのような気持ちを抱いた。

僕もこっちに来る事で結局彼女と別れたばっかりだったし
語学学校の日本人とばっかりつるんで遊んでる女の子たちには
全然魅力を感じなかったし
だいたい遊ぶお金もなかったし
それから僕たちは料金のとても安い
あるいは無料の美術館や博物館によく行くようになった。

茉莉ちゃんは絵の話をするときは本当に生き生きとして輝いていた。
僕は本当は茉莉ちゃんのいろいろなことを知りたかったけど
彼女はあまり自分の話はしなかった。
だけどそれでも充分だった。

たまに僕のフラットへ遊びにきてくれたし
安いワインを買ってチーズとパスタだけのデイナーをしたりもした。
僕がエッチングに興味を持っているって知って
自分の銅版を持ってきて説明してくれたりした。

「どうやって作るの?」
「まず、防腐剤を塗って、絵を書いて、それからこの針で彫るの。」
「うわ、僕、先端恐怖症なんだ。」
「変なの。」と彼女は笑い
「それから硝酸で腐食させるの。」と
丁寧に教えてくれた。

彼女の彫る線は今目の前にいる彼女と違って
繊細で危うい感じがした。

2ヶ月くらい経ったそんなある日
ディナーの後、僕は我慢できなくなって茉莉ちゃんに言った。
「茉莉ちゃん。好きだよ。」
キスをしようとした瞬間、茉莉ちゃんの顔が表情を無くしたまま固まり
まるで能面のようになった。
僕はびっくりして動きをとめた。

「ごめん・・・」
戸惑ったまま謝った僕に
しばらくしてから茉莉ちゃんが抑揚のない声で言った。
「弟みたいに思ってたから・・・」
「そっか・・・ごめんね・・・。
 もう、今みたいな事しないから、会わないなんていわないで。」

僕はみっともないほどうろたえた。
茉莉ちゃんはそのまま玄関を出ていった。
追おうと思ったけど、さっきの表情が浮かんで足が動かなかった。
彼女の姿はすぐ霧の中にまぎれて消えていった。

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2001/08/23