オフィーリア 
Vol.5
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自分のフラットに帰りたくなかった僕はそれからひと月間
セルジュのところへ転がり込んだ。
毎日クラブへ通い酒を飲み夜中まで連中と遊んだ。
学校も行かなかった。
絵も、版画も何も見たくなかった。

ひとりになると電話をかけたくなりそうだった。
茉莉ちゃんから電話がかかってきたら行ってしまいそうだった。

「いつだって、茉莉ちゃんが必要なときには来るよ。」

そう言ったのに、嘘じゃなかったはずなのに
結果的に僕は残酷な嘘つきだった。
恐がって必死に守っていた茉莉ちゃんの砦を壊し
安心させてから彼女を壊したのだ。

ひと月ぶりにフラットへ戻ったとき
何かが玄関に置いてあった。
そしてドアに紙がはさんであるのが見えた。

『慎へ
慎は優しかったよ。
苦しめてごめんね。
       茉莉 』

一昨日の日付の新聞紙に銅版が包まれていた。
ドライポイントの手法を使ってあった。
直接彫るその手法は力も技術もいる。
深く浅く、強く繊細な、微妙な線で彫られたものは
光に包まれた二人の後姿だった。
傷ついた腕で一生懸命彫ったであろうそれは
柔らかく、そして美しかった。

僕は無駄だと解っていて電話をした。
電話は取り外されていた。
茉莉ちゃんの行きそうなギャラリーや美術館へ毎日通った。
でも、会えなかった。

急に何故か二人で一度も行ったことのなかった
テイトギャラリーへ行ってみようと思いたった。
茉莉ちゃんはターナーはあまり好きじゃないと言っていたが
モダンアートの素晴らしい絵がたくさんあるのに何故来なかったのだろう。

シャガール、クリムト、ミロ、ピカソ・・・
教科書に出ているような絵が並んでいる。
そしてある絵の前に立った時
僕の息は止まりそうになった。

絵の中には茉莉ちゃんがいた。



ミレイのオフィーリアだった。
川に落ちた場面で
狂気の中のオフィーリアが何かを切れ切れに歌い
うつろな目をして浮いている。
手には美しい色とりどりの花をもち
その花との対比が死に行くオフィーリアの表情をなおさら哀しくさせていた。

「大悪党だ、みんな。一人でも信じるんじゃないぞ。
尼寺へ行け、尼寺へ。それも今すぐ。さようなら。」

ハムレットがオフィーリアに言ったセリフが頭をよぎり僕は泣いていた。
茉莉ちゃんのフラットを出たあの日から、初めて泣いた。
出逢ったときの茉莉ちゃんがICAギャラリーでしていたように
僕は床に座ったまま
そのオフィーリアを見ながらいつまでも泣き続けた。

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2001/08/27