あの日から(蜜虫編)

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唯子の墓は海の見える小高い丘にある。
なだらかな小径を登って行くと、静かな公園墓地が広がっていた。
花を手向け、線香に火をつける。
ゆっくりと掌を合わせ頭を垂れた。
目を閉じ唯子の面影を辿る。
あの日、突然命を奪われた彼女を思うと言葉もなかった。
合わせた掌を離し、立ち上がろうとしたとき、軽い目眩がした。
こらえてなおも立ち上がろうとした僕は、後ろに引きずられるような奇妙な感覚を覚えた。
いけない!
態勢を立て直そうとしたが、足が地面から離れ、体が宙に浮いた。

*  *  *  *  *

おかしいな。どうしてここに唯子がいるんだろう。
周りは膜が張ったようで何も見えない。
不確かな場所で唯子と対峙していることに、漠然とした不安を感じた。
唯子が白い腕を伸ばす。
愛しそうに僕の頬を両手で包んだ。
「どうしたんだい?なんでそんな悲しそうな顔をするんだい?」
彼女は涙をボロボロこぼしながら言った。
「あなたはこれからも那美の裏切りに目をつぶって行くつもりなの?
 あなたはそれで幸せなの?」
返事が出来なかった。
彼女は畳み掛けるように続ける。
「私はあなたを幸せに出来るわ。
 あなたを裏切ったりしないもの。愛しつづけられるもの。
 私と一緒にいて。
 もうこれ以上、あなたの惨めな姿を見ていられないわ。」

『一緒にいて』
その言葉にゾッとした。
何が得体の知れない恐ろしさを感じた。
唯子は一体何を望んでいるんだ?

唯子が僕の唇に唇を重ねた。
背筋が凍りつきそうな冷たさだった。
恐ろしさで体が強張る。指一本動かすことが出来ない。
そんな僕の背後から突然声が聞こえた。
「あなた!」
那美だった。

「助けてくれ、那美!」
唯子の腕を振り解こうとした僕だったが
逆に信じられないような強いちからで引き戻されてしまった。
「だめよ、邦彦さん。那美には取り戻せないわ。
 那美がどうしてあなたを必要としているかわかる?
 あの男のためなのよ。
 夫のいない子持ちの女なんて、本気で相手にする男なんていないわ。
 だからあなたが必要なのよ。」
不意に那美の体が二つに裂けて、バラバラと宙に舞う。
驚いて唯子の顔を見た僕は、愕然とした。

カッと見開いた目も、逆立った髪も、醜く歪んだ口も、もう唯子のものではなかった。
ああ、このまま鬼と化した唯子に連れて行かれるのだろうか。
僕は目を閉じた。
もうダメだ。



その時、遠くでかすかな声が聞こえた。
ハッとして目を開く。
もう一度声が聞こえた。さっきよりもはっきりと聞こえた。
「パパ。」

振り返ると勇太と麻奈がこちらに駈けて来るのが見えた。
僕は慌てて声を上げた。
「勇太!麻奈!来ちゃいけない!!」
二人とも僕の声が聞こえないのか、両手を広げて僕の首っ玉に抱きついた。
「パパ!何処へ行ったのかと思ったわ。」
「そうだよ、心配しちゃったよ。」
僕はもうどうなってもいい。
だけどこの子たちは何があっても守らなくちゃいけない。
僕はちからいっぱい二人を抱きしめた。

「ああ・・・・。ああ・・・・。」
唯子の口から言葉にならないうめき声が漏れる。
僕を掴んでいた腕からちからが抜ける。
みるみるうちに彼女の姿が歪み、崩れ始めた。

「うっ。」
不意に焼け付くような痛みを感じた。
こらえきれず喉元を掻きむしる。
「パパ、パパ。」
子供たちの無邪気な声が響いているのに、視界がぐるぐる回り始めた。
勇太、麻奈。
声にならない叫び声を上げながら、僕の体はまた宙に浮かんだ。

*  *  *  *  *

目を開けて最初に視界に飛び込んできたのは、勇太と麻奈の顔だった。
「ここ・・どこ?」
「病院だよ、パパ。」
「病院?」
「うん。パパはお友達のお墓の前で倒れてたんだよ。」
そうか。
そうだったのか。
「ママは?」
「今、誰かと携帯電話でお話してるよ。」
僕は苦笑した。
その拍子に涙がこぼれた。
「パパ、どうしたの?頭、痛むの?」
「いいや。もう大丈夫だよ。ごめんな。」
だけど僕の涙は止まることなく、ボロボロと流れ、枕を濡らし続けた。

麻奈に頼んで手鏡を持ってきてもらった。
あの痛みの場所を写してみる。
唯子のキスマークはもうない。
ただ気管切開の傷だけが残っていた。



*  *  *  *  *

退院してから、那美と別居した。
いずれきちんと離婚することになるだろう。
まだ那美との話し合いはついていないが、子供たちは僕が引き取ろうと思っている。
僕の命の恩人。
いや、僕の命そのものなのだから。


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作者 蜜虫
HP  ヒトリノ夜

作者コメント

この作品は主人公が夢とも現ともつかない状態で
かつての恋人に会い、愛し合うという設定の上
時間が現在と過去を行き来します。
私は、この条件を満たしてラストを書くことが出来ませんでした。
だから本編を読んで、そのまま私の書いたラストにつなげると
多々矛盾点が生じてしまうと思います。

私は二人の子供たちとの親子愛を軸に描きたかったので
唯子さんに”鬼”になってもらいました。
唯子さんが、本編とはかけ離れたイメージになってしまったことを
ナジャさんに申し訳なく思っています。

読むには、たいへん面白い作品でした。
ラストを書くという作業にはキツい作品でしたが(笑)

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2002/11/28